読書感想:『ゲーム障害 ゲーム依存の理解と治療・予防』(福村出版、2020)

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はじめに 

 

 専門領域外で読んだ本に久しぶりに衝撃を受けた。このインパクトを形にすることで、どうにか気持ちを整理することができたらと思い、記事を書いてみることにした。

 本書はインターネットゲーム障害(IGD)について、近時の研究も含めて広く言及する総説的なものである。ゲーム障害の予防・治療に関わる人たちは別として、一般的に読み物として「面白い」と言えるかは明らかではない。私自身、この本を手に取った*1きっかけは、もちろん、かつてゲームに生活を捧げた経験のある身として、当時の自分はゲーム障害に該当するのだろうかという好奇心もあったが、直接の原因は香川県のネット・ゲーム依存症対策条例だった。私は「ゲーム脳」言説の影響が強かった世代であり、実際に同条例を巡る議論もその亜流に留まるレベルのものも多かったことから、そこでしばしば言及されていた「ゲーム依存症(障害)」もそれと同種のものではないかという素朴な印象を持っていた。そこで、何となればその難点を指摘してやろう、というつもりで、ゲーム依存症・ゲーム障害について最も学術的作法を踏まえた論述をしているように見えた本書を購入したという次第であった。

 

ゲーム障害の大まかな理解

 最初にそのようなイメージが読了後にどのように変化したかについて書いておくと、後述のようにいくつか気になる点はあるものの、全体として大きく改められることになった。つまり、読了後の私の理解としては、ゲーム障害は深刻な健康・社会問題として現に存在し、それを改善するために医療的・福祉的な措置が必要である。理論的な説明について未解明な部分があるにせよ、従来の「ゲーム脳」言説とは異なり、その知見は科学的なエビデンスによって支えられている

  その具体的な内容については本書を読んでもらうのが最善であるように思うが、私がそのような理解に至り、また多くの人にとっても理解しやすいと思われる理由を簡単に述べておきたい。

 まず、本書で想定されているゲーム障害は、単にゲームをプレイすること一般の問題性を内容とするものではおよそあり得ない。むしろ、ゲームの適度な使用は利益をもたらし得るものであり、一般的に抑圧されるべきものではないとの前提が堅く維持されている*2。したがって、ゲーム障害と評価される典型的な事例は、ゲーム使用のコントロールに障害があり、その行動パターンのために生活上著しい問題が生じており、その行動パターンが長期間に及ぶような場合である*3。本書では臨床的には機能障害の点を重視すべきであり*4、プレイ時間や期間について形式的に厳格な基準を立てるべきではないことが強調されるが*5、おおむね「1日に8~12時間」*6「週に70時間」*7程度のゲーム使用が「12ヶ月以上」*8継続しているような場面が想定されているように思われる。つまり、一定程度重度のゲーマーが念頭に置かれることになる。もちろん、より本質的な機能障害として、本人にとってゲーム使用をコントロールすることが困難であり、そのために社会生活上の困難を抱えていなければならない

 そして、仮にそのようなゲーム障害があると判断された場合であっても、強制的にゲーム使用を不可能にするような振る舞いには大きなリスクが伴うことが指摘されている*9。これは、適度なゲーム使用はおよそ否定されるべきではないという前述の理解に加えて、ゲーム障害が、もっぱらゲーム使用のために生じるものではなく、背景には人間関係・生活環境の悪さやそれに由来する自己肯定感の低下など過度なゲーム使用の要因があるものと理解されているからだろう*10

 そのため、本書の意図に即したものであるかは保証できないが、おそらくゲーム障害として典型的に想定される事案とは、長期間に渡って毎日10時間以上のゲーム使用が続いており、本人もそれをコントロールすることができず、そのために不登校学力低下・社会参加の減少といった問題が生じているような場合である。そして、そのようなクライエントに対する介入として予定されているものは、意に反してゲームを取り上げることや、無理やり野外キャンプに連れて行くことではなく、過度のゲーム使用を支える認知的なバイアスを弱めつつ、他の事柄へ積極的に関与できるよう助力し、健全な社会生活と長期的に両立可能なゲーム使用の習慣を確立するようなものだと思われる*11。ゲーム障害は必ずしも子どものみを念頭に置くものではないが、以上のような状況にある子どもについて、以上のような方向性での介入を行うことは、適切なものであると考える。そういうわけで、私は「ゲーム障害」という問題の捉え方一般については、今や大きな異論を持つものではない。この点については、かつて「ゲーム脳」言説に強く抗ってきた諸ゲーマーにも、おおむね納得してもらえるのではないかと考える。

 

個人的な体験との関係で

 さて、以上のような「ゲーム障害」の一般的な内容については、社会的に受容が進むことに大きな意義があると思われる一方で、私個人にとってのインパクトという観点では、そこまで重要な問題ではない。私にとって衝撃的だったのは、本書で紹介されているゲーム障害の病態の一つにかつての自分がよくあてはまりそうであり、しかも典型的な事例で見られる内心の吐露が、およそバーナム効果とは考えられない程度で、私が常日頃素朴な信念として抱いているものに一致していたことである。本書は数多くの問題についての総説的な整理を内容とするものであるため特定のモデルに基づいて一貫した解説を行っているわけではなく、以下でも雑多な「それらしい」記述の列挙となるが、ご容赦頂きたい。

 

架空の現実世界と、リアルなバーチャル世界

 特に目を引いたのは、自分の本体はバーチャルな空間にあるという感覚についての言及である。私は以前から、そしてオンラインゲームをやめて久しい現在でも、「リアルはアバター」「心はまだゲームの中にある」という表現を好んで使っている。

これは、単にオンラインゲームやインターネット空間への没入感を表現するために用いているという側面はあるものの、私の感覚としては極めて「リアル」なものである。たとえば、本名とHNのどちらに愛着を感じるかといえばHNの方であった。同一ワールド内に複数のチャンネルがあり、それを容易に切り替えることができたゲームをプレイしていた頃、現実世界で混み合っているところを通るたびに、「なぜ『こっちの世界』ではチャンネルが変えられないんだ」とイライラしたことをよく覚えている。

本書では、たとえば次のような言及がある。

 一部のゲーマーは、オンラインの自分が「本当」で、オフラインの自分は「ニセ/いつわり」の存在と表現することを好む。(164頁)

現実世界の自己は、バーチャルな自己にアクセスするためのエージェントでしかないと感じられてくる。(164頁)

このような表現それ自体は、ゲーマーの間では軽口としてしばしば耳にするものだろうし、特に目新しいわけではない。しかし、重要なのは、それが単なる軽口ではなく、おそらく中核的な信念として語られたものであるという点である。

 

うまくいくバーチャル世界と、うまくいかない現実世界

 第二に、これと関連して表裏一体のものとして言及される、自己肯定感の問題である。つまり、外界の生活での自己肯定感・自己効力感の低さがあり、それと対をなすものとして、ゲーム使用に関するポジティブな信念を強固に有しているというものである。本書の言及をいくつか取り上げると、次のようなものである。

自己効力感が低い人はほとんどの日常活動でうまくいかないと感じることが多いため、明確な構造や誘導策を備え、プレイヤーの巧みさや強さを強調する、あるいは他の肯定的な表現を提示してくるゲームに引きつけられる。(75頁)

IGDのプレイヤーは、オンラインの世界だけが安全だと感じていたり、ゲームをすることでしか熟達や個人的達成の感覚は得られないと思っていたりする。こうした認識は、「現実では何者でもない私が、ゲームではしっかりやれる」という中核信念に反映される。(110頁)

バーチャルの世界は安全で確実な親近感のある場所だと認識し、そちらの世界をしだいに望むようになっていく。こうした変化は、ゲーマーが現実世界での自己を低く評価し([文献略])、自分は中身のない、つまらない、不十分な存在であると認識しているときに生じることがある。……

 ……このような流れのなかで、ゲームしようは否定的な自己認識に対抗する手段となる。IGDの人は、自分の時間と資源のほぼすべてをゲームにつぎ込み、上達し、他のプレイヤーを凌駕することを目標として、ネガティブな自己評価に対し周到に挑みかかるのである。

 こうしたゲーム行動のサイクルに入っている人にとって、……現実世界の決定や選択や些事に思えて、フラストレーションにつながることも多い。プレイヤーがゲームの遂行を優先し、そうすることに高い価値を見出して、日常生活やライフスタイルの中心にゲーム使用を位置づけていると、他者や外界は二次的な存在であり、ほとんど重要ではないという認識が助長される。(164頁)

IGDの人の多くは、ゲームを問題視するどころか、ゲームは自分で選択したライフスタイルであり、有能さや幸福を感じ「生きている」実感を得るための主要な場所であると認識している。……「達成」や「特別感」を求めてゲームをするクライエントは、「ゲームがなければ私は何者でもなく、この人生は単なる失敗でしかない」あるいは「自分はゲームしか能がない」といった信念を持つことがある。また、主にゲームを通じて社会的認知の感覚を得ている人は、「もしゲームをやめたら、きっと誰にも好かれないと思う」といった嘆きや、これに似た否定的な社会的見通しを表明することもある。(170-171頁)

あらかじめ断っておくと、私は平均的な層と比較して学力の点で大きな問題を抱えたことはなく、そのため「低い学業成績」といったリスク因子は認めづらいだろうし、長時間のゲーム使用に伴う学業への悪影響があったとしても、客観的に見て重大なものだったとは思われない*12。しかし、日常生活で直面する課題の大半について、解決能力が低く、最終的に乗り越えることができたとしても多大な労力と時間が掛かってしまうタイプだったことはおよそ否定し得ない*13。現代では「そのような」人にも一定の理解のある社会となっているが*14、少なくとも私が子どもの頃には、それは単なる怠惰そのものであった。すなわち、そのような精神的未熟さは教育・指導によって叩き直す必要があると理解する人が多かったように思うし、いずれにせよ私の身近な「大人」*15はほとんど例外なくそれにあてはまった。結局のところ、私の努力を「正当に」*16評価してくれたのは、オンラインゲームだけだった。その世界には、何の報酬もなくただ生存し続けるために歯を食いしばりながら果たさなければならない義務は存在しなかった*17

 

人生ゲームのアバターとしての生

 そして、このような感覚は、長らくオンラインゲームに触れていないにもかかわらず、今でも私の心を支配しているようである。私は今も「どれだけ努力してもコントロールし難い外界」と「努力が正当に報われる真正な世界」という二元的な理解にとらわれている。そのような認知のあり方は、たとえば仕事の上で多少の成功があったとしても、およそ変わることはないだろう*18。この世界では、日常的な活動のほとんど全てが、常に「お前は無能であり、努力は無駄である」と囁いているように感じられるし、それから逃れることのできる空間は存在しない。そして、それに立ち向かい、克服するための努力それ自体が評価されることはあり得ない。「仕事ができない」という高次の悩みは、いまだ私の手が届かないところにある*19。そして何よりも、最も崇高な存在である「ゲームがうまい」人間になることは、もはやできない。

 これは「ゲーム障害」とはおよそ関係のない問題かもしれないし、それ自体として何かしらの病的と評価できるものではないかもしれない。もっとも、本書の上記のような指摘は、現在の私自身の感覚を説明し、整理するために非常に有益なものだったように感じられる。それは本書を手に取った動機からすればもとより期待していたものでは全くないが、今は偶然の出会いに感謝している。

 

今後期待するもの

 他方で、以上のような体験・感覚を持つからこそ、いくつかの点で本書と本書で紹介された研究について不十分さを感じた。もちろん、それらは門外漢の私が今後の展望として期待したい事柄に過ぎず、当然にそのことは本書の意義・成果を減じさせるものではないが、ここではそのうちいくつかを簡単に挙げておきたい。

 第一に、適度とは言い難いゲーム使用の場面でも、そこでの関わりが、認知的なバイアスに基づく主観的な評価としてではなく、客観的に見ても好影響となることがあるという点である。オンラインゲームに熱中していた頃にも、フレンドの一部は、しばしば(ゲーム使用の両立可能な範囲での)社会参加を促してくれたし、具体的に勉強を教えてくれたこともあった。その当時はあまり意義を感じなかった整数問題、確率、微積分あるいは歴史、地理などについての学びは、その後の学習や受験において大いに役立った。そもそも、現実世界では(無能という意味での)日常生活上の素行の悪さの前に相殺され消滅してしまった私の勉強の出来具合を肯定的に評価してくれた「大人」は、オンラインゲーム内にしか存在しなかった*20*21。オンラインゲームの世界にあっても、外界の価値観が部分的に妥当し、社会的な適応を支える機能を持つ仕組みが存在する場合があることは否定できないはずである。もちろん、多くのゲーマーにとってそのような経験がどこまで共有できるものかと問われれば、自信があるわけではない。本書でもオンラインゲームの世界で通用する価値体系が現実世界から乖離していることがしばしば述べられ*22、そのような見方の方がむしろ一般的なのかもしれない*23。しかし、そうだとしても、私の個人的な体験という脆弱な手掛かりからは、外界での環境整備や認知的働きかけと並んで、オンラインゲーム内から社会的な適応を促進するような働きかけの有用性が検討されるべきであるように感じられる。実際のところ、私の人生は、心理的・教育的な理解者・助言者をオンラインゲーム内に持つことができなければ、およそ成り立たないものであった。もちろん、これはプレイヤーと現実世界で接する専門家の行う医療的な介入の方法としては困難なものであることは否めない。身近なプレイヤーへそのようなサポートを行うことを推奨するような活動はあまりに夢想的かもしれないが、「ゲーム内からの拒絶的ではないアプローチ」の効き目の強さを知る者として、どうしても期待を捨て切ることができない。

 第二に、私の個人的な体験はMMORPGと長期間RTSであったために、本書の参照した研究に当てはまる点が多くあったとしても、それがどこまで日本における規制・ルール作りの場面で有用なものかという疑問である。つまり、本書はゲーム障害と結びつきやすいゲームの類型として、先行研究を踏まえて主としてMMORPGとMOBAが挙げられていた*24。しかし、現在の日本において、ゲーム使用が問題化する事例の少なくない部分はーーもしかするとその多くはーーガチャを不可欠の要素としたソーシャルゲームではないだろうか。本書はオンラインのカジノゲームを念頭に置いてギャンブルと「将来的に類似の規制の対象となる可能性」を示唆するとともに、「pay-to-win RNGルートボックス」の人気が高まっていることを指摘しているが、日本国内の規制問題として最も重要となる課題はこの領域にあるように思われる。さらに、日本固有の問題としては、パチンコとの連続性についても注意を払う必要がある。日本のゲーム業界はおそらく「第二のゲーム脳」言説への警戒からか、ゲーム障害の問題にあまり真剣に取り組んでいない節があるが、明確かつ適切な範囲に留めたいのであれば、これらの点について積極的に調査・研究を行う必要があるだろう。

 

おわりに

 概要の紹介、もっぱら個人的な体験に根ざした感想、今後の展開への期待と、前後に一貫性のないふらふらとした内容になってしまったが、最後に、印象に残った記述のうちここまで取り上げなかった部分を取り上げたい。

ゲームを終結させるにあたって、そのゲームから離脱する「儀式」としての象徴的行為が必要になることがある。こうした行為はゲームに限らず、現実でも行われる。たとえば、クライエントはオンラインゲーム内の個人的に重要な意味をもつ場所に自身のゲームキャラクターを放置することがあるが、それは死者をゆかりのある場所に埋葬する行為に似ている。ほかにも、クライエントがオンラインキャラクターの所有物を人に譲るか消去するかしてアカウントを処分した後に、そのゲームをクリアした記念品として、関連書籍や使っていたアバターの模型などを現実に所有することもある。(249頁)

この文脈で言えば、この記事を含むこのブログの中身は、いわば「墓なき墓参り」のようなものなのかもしれない。そう思うと、何らかのモニュメントが手もとに欲しいという気持ちがふつふつと湧き上がってくる。そして、ゲーム障害・依存症について理解を深めてもらいたいという大層なことを言うつもりはないが、是非ともゲーマー、あるいは元ゲーマー諸氏には本書を手にとってもらい、「自分がそこにいるか」を探求することで、一緒に「墓参り」をすることができれば望外のことである。

 

*1:ただし、amazonのサイト上で、である。

*2:この点について、68-69頁を参照。つまり、「ゲームはあらゆるユーザーに害をなすものではない。タバコなどとは異なり、ゲームはそもそも不健康な活動ではなく、……利点のある活動なのである」(69頁)。そのため、第5章のうちIGDのスクリーニングツールについて検討するパートにおいて、スクリーニングツールの一部に認められる問題として、「プレイヤーに正の効果をもたらしうる特定のゲーム行動が有害なものとして想定され」てしまうことが挙げられ、たとえば「ゲームでストレスを解消している健康な人」を除外できるよう、「嫌な気分に対処するため」あるいは「さまざまな悩みを忘れるため」にゲームをするといった項目を用いる場合には適切な留保が必要であることが指摘されている(142頁)。

*3:126-127頁。

*4:つまり、「ゲーム使用の結果として生じた機能障害(functional impairment)は、ゲーム障害の中心的な基準である」(123頁)。

*5:たとえば、「ゲームに費やされる時間と負の結果との関係性には、一貫した経験的裏づけが得られていない」ことが指摘されている(45頁)。

*6:70頁など。114頁では「問題のあるゲーム使用は、通常は毎日8~10時間に及ぶ」とされる。

*7:「極端な基準域」としてではあるものの「週に70時間超のゲーム」は「明確な問題のあるプレイヤーを識別する尺度として優れている」ことが指摘されている(45頁)。

*8:127頁。ICD-11を参照

*9:たとえば、「親はゲームに対して否定的な態度(『ゲームは時間の無駄だ』と告げるなど)を示し、青年からゲーム機器を取り上げてゲームをやめさせようとすることがある」が、「この方法は対立を激化させ、関係性の崩壊を招くおそれがある」と指摘されている(211頁)。より具体的には、「IGDのへの対処としてメディア使用を制限すると、制約が親子間の対立を生み、さらに制約が厳しくなるという『悪循環』に陥る場合がある。親子がこのように対立を深めていくと、脆弱な若者は親から受ける阻止、敵意、拒絶のストレスを管理しようとして、ゲームに対する依存を深めるおそれがある。こうした親子間のやりとりは、ゲーマーの負の自己評価を強化し(『親は僕のことが好きじゃない』)、自分の人生におけるゲームの自己防衛的役割を確信する(『ゲームをしているときは安全だと感じる』)ことにつながる」(163頁)。

*10:ゲーム障害の危険因子につき、第3章を参照

*11:そのため、「クライエントの日常からゲーム使用をできる限り排除するだけで、クライエントの問題解決を支援せず、心理的欲求の充足につながる新しい活動を支援しない治療は、決して望ましいとはいえない」(193頁)。

*12:ゲーム使用がコントロールできていればより多くの時間と労力を学業に投じることができたかもしれず、逸失学力のようなものは観念できるかもしれないが、いずれにせよ絶対的な評価として問題がある水準であったことはほとんどない。ゲーム使用が最も顕著だった時期に、それまでおよそ縁のなかった赤点を取ったことはあったが、それのみをもって学業成績に問題があるとも言い難いだろう。

*13:今でも、部屋の片付けは「膨大な情報量」の前に「こんな複雑で難しいことは無理だ」と脳が悲鳴を上げ、手を動かさないと思いながらも止まってしまうことが多い。「絶対にやらないといけないんだ」と繰り返し自分に言い聞かせながら、眠らず一晩掛けてどうにか完遂することは珍しくない。

*14:これは書評の本筋に関わるものではないが、現在はADHDとの診断に基づいて薬を服用している。この点につき、本書にはADHDあるいは発達障害を別個に取り上げてIGDとの関連性に言及したものは見当たらなかったが、個人属性(性別・年齢など)、認知因子(IQ・固執性など)、精神病理因子(ADHDうつ病など)、社会的相互作用に関する因子(家庭環境・自尊感情など)の4因子はいずれもIGDに有意に関連するものの、とりわけ精神病理因子が「最も強い危険因子」であることを示唆する研究が紹介されている(74頁)。

*15:ここでは、必ずしも成人に限ることなく、幼かった自分から見て精神的な成熟を感じた歳上の存在全般を指すものとして「大人」という語を用いたい。

*16:客観的に見れば私は紛れもなく無能であり、本来であれば自分はもっと評価されるべき人間だったのだ、と考えているわけではない。しかし、努力それ自体を評価してもらいたいという欲求を持ち、そのような評価を与えてくれる世界だけが正しいものであるという確信を持つに至ったことが非難に値するものとは思われない。

*17:もちろん、ゲームを遂行するためにも現実世界で生を実現し続けるための活動は不可欠であり、素朴な認知のあり方として全く別個の世界だと思えたことこそが最も重要な点であるかとしれない。

*18:現実世界で何らかの成果をあげ、肯定的な評価が得られることに嬉しさを感じないわけではない。しかし、それは多分に偶然的な事象であり、しかも多くの場合にはオンラインゲームでやってきたことからすれば、相当に難易度が低いものである。もちろん、これは自分自身の能力の低さから、現実世界ではリスク回避的な戦略を採用しているからでもある。

*19:もちろん、仕事の上でも、たとえば電話を掛けなければならない場面や、複数の事務手続を順序良く円滑に進めないといけない場面では、やはり同様の辛さを感じることがある。しかし、それは仕事だから生じる問題ではないし、日常生活で毎日のように直面している「難しさ」が、仕事の場面でも少し顔を出す程度である。もちろん、同質の辛さであれば、報酬が与えられる辛さの方が遥かに「報われる」ものである。苦しさの感じ方が人それぞれであることは理解しており、「労働がつらいだけの人は楽なものだ」と言うつもりはない。

*20:私は今でも、自分の仕事の成果を称賛されること一般にはそこまで嬉しさを感じない一方で、かつてのフレンドからの素朴な褒め言葉には、何物にも代え難い価値を感じる。ゲームに熟達した人から肯定的な評価を得られることで、ゲーム使用以外の場面の事柄についても限定的ではあるが価値ある自分を認めることができているのかもしれない。

*21:そして、これもゲーム障害のある者の認知的特徴の一つと言えるのかもしれない。本書によると、「社会性のある要素を含むゲーム活動に多くの時間が割かれるようになるにつれ、ゲーム以外の現実の活動は些末で満足の得られない、本人にとっての意義を欠くものという認識が深まっていくことがある。こうした信念はたとえば、自分のことを理解できるのは、ビデオゲームのプレイヤーだけ、さらにいえば同じゲームのプレイヤーだけであるという意識として表れる」という(111頁)。ただし、このような信念が、私にとって棄て去るべき、忌むべき認知の歪みであるのかどうかについてはあまり自信がない。

*22:たとえば、「プレイヤーはゲーム活動という安全な『繭』のなかで、ゲームをしない身近な人々とは異なる、ゲーム世界の価値観や表現に根ざした理想的なアイデンティティをはぐくむことができる」(168-169頁)という指摘がなされている。

*23:いずれにせよ、「クライエントが愛好しているゲームのオンラインコミュニティに問題のあるゲーマーが多く参加し、ゲームに対する不健康な態度を奨励し強化している状況では、社会的認知効果によって、クライエントがそうしたコミュニティの雰囲気に感化されることがある」という指摘(169頁)は、反論の余地がない。

*24:16-17頁など参照。

Romanaとの開戦理由について(3期jpx)(2013-12-09)

 

Romanaとの開戦理由について(3期jpx)

2010/03/22開戦の、R・AvisLによる対Romana戦の開戦後、
それまで不可侵関係を維持していたRomana同盟員が本スレで暴れ始めたため、
それを受けてR同盟員内部に向けて回した戦争決定に関する説明。

(経緯)
サーバー開始より反AvisLを掲げていたRは、
南東でAvisLに攻撃を受けていたBeagle,PH,Grip,Romanaと将来の対南東戦に向けて打ち合わせを行い、
北東に進出しないことを条件に不可侵を締結していた。
しかし、RomanaはAvisLから攻撃を受けていないだけでなく、
現にAvisLから攻撃を受けているGripにも支援を行っていないことが明らかになる。
挙句にR同盟員の誤爆問題を機にAvisLとの秘密裏の有効を仄めかし始め、
Romana幹部がAvisLに別アカで協力を持ちかけていることから不信感が決定的となった。
そもそもAvisLとは潜在的対立状態となっていたRではあったが、
コウモリ状態のRomanaを好ましく思っていないのはAvisLの方も同様であり、
R系列事務員nigouとAvisL幹部hiyoとの間でRomanaの挟撃作戦が持ち上がり、
3/22に攻撃が行われることとなった。

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開戦理由について

いまさら開戦理由が必要なのか?と思われるかもしれませんが、
スレでRomanaが暴れているようなので一応まとめておきます。

まず開戦に至った最も大きな要因は、
つまるところ「Romanaが信用できなかった」からです。
以下にその信用に足らないと判断した理由をば。

1.Ale Heinessen氏の件
RとRomana,Grip,PHは正月休戦解禁後、その後の共闘を目的とした不可侵を暫定で結びました。
しかしその直後にR同盟員がRomana同盟員へ誤って攻撃をしてしまい、
こちらでその補償の準備を進めていたところ、当時のRomana幹部で支部同盟の責任者であったAle Heinessen氏より、
「AvisLと親しいメンバーは多いからAvisLと組んでRと戦ってもいいんだぞ。」という旨のIGMを受け取りました。
もともと不可侵は「Rとの共闘」を前提にしていたので、コウモリ外交を行うようであれば不可侵の破棄を行う旨を通告し、
R系列アンケートによってRomanaとの不可侵解除と攻撃開始が決定されましたが、
Romana盟主とAle Heinessen氏自身の謝罪があったため、nigouの独断で攻撃を中止にしました。
「Rとの共闘」という項目を知っていたのは一部幹部だけだった、との理由説明を受けましたが、
当初Romanaは「Rとの共闘は同盟員の総意に基づく」ものであると説明していました。
この時点で当初の約束を反故にされたという思いが強くあり、
また、支部同盟の責任者が同盟の全貌を知る「一部幹部」に含まれず、
その方が反R的な志向を持っていることに強い不信感を覚えました。

2.strauss氏の件
南東の野良プレイヤーからAvisLに対して「GripやPHの情報を売るからRomanaは攻撃しないでくれ」との依頼があり、
IPを調べたところ、Romana同盟chにいたRomana同盟幹部で人口トップのstrauss氏とIPが一致しました。
strauss氏自身もこれを認めており、他のRomana幹部もこれを認知していましたが、一切処罰はありませんでした。
このRだけでなくAvisLと矛を交えていたGripをも捨て駒にしか考えていないRomana同盟の方針を受け、
外交的に協調を図ることはまず不可能であると判断しました。
R系列としてはstrauss氏がAvisLへの攻撃を行うなどで自身の所信を明らかにして頂くか、
strauss氏に対する処罰が行われればそれを以ってRomana同盟への信頼を再び抱くことが出来たかもしれませんが、
結果的にAvisLとRomanaの実質的な不可侵は維持され、strauss氏自身の行動もなければRomana同盟のstrauss氏に対する行動も何もありませんでした。

この状況にあっては、「RomanaはRにもAvisLにも外交交渉を行い、不可侵を維持している」と判断せざるを得ませんでした。
Romana開戦後に事実確認を行ったところstrauss氏以外のルートで交渉を行っている様子は確認できませんでしたが、
Ale Heinessen氏からの外交IGMでは「AvisLとの交渉ルートや繋がりを持っている」と判断しないわけにはいかず、
今回の攻撃の判断についても間違っていたものではなかったと判断しています。
「実際にAvisLとの不可侵はなかった」とするRomanaにも言い分はあると思いますが、
「AvisLと組んでいる」というブラフを同盟幹部が行ってしまった時点で信用しろというのが無理な話です。

と、長々と理由を書いてみましたが、
正直なところを言えば「攻撃する理由ができた」というよりも
「攻撃しない理由が何もなくなってしまった」ということに過ぎません。
攻撃してはいけないわけでもない同盟に対して攻撃をすることに理由は必要ありません!

若干の補足

これもTravianのデータ整理中に発見したもの。

宣戦布告文(2012-08-28)

 

宣戦布告文

たまたま出てきたので掲載。
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こんばんは。

トラビアンJPx-2もWoW村出現まで指折り数える程になり、
とうとう終盤戦の運びとなっているようです。

北東におけるR2系列の勢力拡大は、
Ab同盟様との不可侵により背後が安定していたためでもあり、
今後の終盤戦でもトラビアンJPXを楽しむ上でAb同盟様との関係が重要だと考えています。

聞くところによると「他方角のWoWを折る」ためのWoW砲は準備されているようですが、
同盟のスタンスとしては「WoW建設に関わらない」であると理解していますし、
その点について我々R2系列同盟とも合致点が多く見られると思います。
もしAb同盟様がよろしければ、現在の不可侵協定関係を見直し、
「共に終盤戦を楽しむ」という体制を作りたいと考えています。




そこで、僭越ながらR2系列同盟の「終盤戦における戦争相手」にAb同盟様を指名させて頂きたく、
このIGMをもちまして不可侵協定の破棄と宣戦布告の通告とさせて頂きます。
Ab同盟様所属のsaladin様の見解によれば「不可侵は攻撃が禁止されていない」とのことだったと思うので(注)、
この通告より先に攻撃が入ってしまったとしてもご容赦願います。

UrK盟主/R2系列外交・軍事担当 Nigou

2009/09/19?

注:Rの対Ab開戦数日前に、RとAbの間で占領誤爆事件があり、
  双方の会談でAb側の当事者として出席していたsaladinが、
  「不可侵協定はそもそも攻撃が禁止されていない以上、
   攻撃を仕掛けたところで何ら問題にならない」と主張
  Rは対Ab戦前夜に突発的な衝突を避けるべく穏便に解決する道を選ぶも、
  R内の反Ab感情を高めることとなった

若干の補足

Travian時代のデータを整理していたら、第2期jpxにおけるAbへの宣戦布告文を発見したため、これに若干の補足をつけて公開したもの。

一応まとめ(2010-12-24)

一応まとめ


Jpx-1(2008/12-2009/05):Nigou
種族:ガウル
中の人:Nigou

所属・役職:

AOV外交・軍事担当
NEU-AOV外交・軍事担当
北東連合(NEU)統括

初めてのTravianで1週間以上遅れての登録でした。
この手のブラウザゲーをやったことがなかったので、
「登録が遅れると圧倒的に不利」というのをあまり理解できていなかったように思えます。
開始から1-2週間したところで「大手のRと同盟を組んでいるし安全だろう」という判断でAOVに入り、
しばらくはのほほんと過ごしてからR.O.M同盟と同盟として交戦しました。
相手は小規模でしたがランカーを抱えており、近くの同盟員が犠牲になるなど、
「戦争はこういうものなんだ」と実感したのを記憶しています。
また、R.O.M交戦後からそれまで外交担当だったmaryquantさんが引退されて、
私がその代理を務めることになりました。

そして、反R勢と北東中小規模同盟による北東連合の設立です。
これまで大手の戦争にほとんど関与していませんでしたが、
「ここを逃せば二度とチャンスはない」という思いに駆られて参加を決意しました。
この頃には盟主のログイン率が下がってきており、
ほぼ私の独断でNEU入りを決定し、もともと反Rではなく、
また方角内の大手ではない同盟の代表者として北東連合の統括メンバーとなりました。
ここで他のメンバーと会えたことが、最大の転機だったと思います




Jpx-2(2009/06-2009/11):Nigou
種族:ローマン
中の人:nigou
シッター:fusiko

UrK盟主
TS-R系列外交・軍事担当

攻撃ランク:2(1348362p)
英雄ランク:死亡時に鯖終了(生きていたら151レベルで2位)
人口ランク:39(51村・41738人)
ナタール抜き

<兵力>
主:インペリ132,000 カエザリ58,000 カタパ9,600
副:インペリ40,000 インペラ20,000 カタパ2,000

<秘法>
シルバー鬼軍曹

今回も一緒にプレイしよう、とAOVメンバーとK.H.K.I同盟を立ち上げましたが、
序盤からRの威圧外交を受け、やむなくウイングとして下ることを決意するなど、先行きは不安でした。
ところが、Rではもともと1期で中枢にいた幹部がかなり引退していたためか、
内部でも混乱が大きく、私自身も二周目ということでかなりコツを掴んで上位プレイヤーの一角には収まっていたため、
ウイング同盟の盟主でありながら発言権のあるポジションにつくことが出来ました。

その後、R盟主であるTOURERさんのシッターとなり、
波乱のTS独立の中でも自分の同盟の同盟員を確保することに注力し、
かなり優秀なメンバーを集めることが出来たと思います。

そして、TS-R幹部のBrafordさんやRemiliaさん、Hiroshimanさんと連携しつつ、
TS独立後のR2系列のゴタゴタの中で権限を掌握することに成功し、
系列全体の軍事・外交担当となりました。

また、中盤からの対聖軍、対Ab、対南東の諸戦争の中で、
「こうすれば勝てる」という勝ち筋を見つけることが出来たのもこの期でした。
特に「終盤まで農耕を続けてWoW砲を温存して勝利しよう」という方針の南東に、
「戦争をひたすら続けてきた」Rで勝利することが出来たのは嬉しい限りでした。




jpx-3(2009/12-2010/06):crupon
種族:チュートン
シェア:Hiroshiman,shimohi,cruyf,ponde,nigou

R系列事務・軍事担当
WW建設者

攻撃ランク:1(2617985p)
英雄ランク:1(241レベル)
人口ランク:5(73村・66161人)
ナタール抜き

<兵力>
主:棍300,000 斧78,000 騎100,000 ラム23,000 カタパ5,000
副:棍220,000 斧66,000 騎77,000 ラム3,800 カタパ19,000
余:棍138,000 騎34,000 カタパ5,000

<秘法>
ブロンズ靴
ブロンズ鬼軍曹
ユニーク目

jpx-1の北東連合統括メンバーとのシェアアカウントでした。
かなりHiroshimanさんに頼りきってしまいましたし、
Exrea派とsagaoni派の対立など、今まで経験したことのない内部の派閥争いに悩みました。

一方で、終盤では完全に軍事指揮権を掌握することに成功し、
指揮chの攻撃反応速度はかなりのものだったと自負しています。

4期に渡るtravianライフで一番楽しい時間でしたし、
このcruponがjpxを通じて最強のアカウントであったと自負しています。



jpx-4(2010/07-2010/11):monday
種族:ローマン
中の人:ponde,nigou

偵察班・事前調査課(?)

攻撃ランク:9(656785p)
英雄ランク:14(レベル104)
人口ランク:15(42203人)
ナタール抜き

<兵力>
主:インペリ135,000 カエザリ72,000 ラム37,000 カタパ4,000
副:インペリ58,000 インペラ24,000 カエザリ17,000 ラム1,000 カタパ9,000
余:インペリ16,000 インペラ8,000 カエザリ6,000 ラム1,000 カタパ6,000

<秘法>
シルバー目

あまり語ることはありませんが、
恐らくjpx史上最大規模のラム砲を作ったにも関わらず、
撃たずにサーバーエンドに至ってしまったことが残念です。

 

若干の補足

2010年当時、私は高校3年の大学受験生で、2010年11月頭に終了した4期jpxでTravianを引退し、その後は再びTravianをやってしまうことのないようIRCも断っていた。これはその禁断症状を沈静化させるためのものと思われる。

今更ですが(2020-12-21)

 

今更ですが


久々に少しスレを見ていたら自分の名前が出ていたので私信を。
(既にシェアの方が解答しているようですが)

1.村名について
 どう見ても終了後に名前を変えただけです。
 サーバー終了後にログ回収・まとめをした際に、分かりやすくすることが目的です。
 
2.村の取り方について
 大農場・中農場を複数確保するために分散した配置になったのと、
 主砲村・副砲村近辺に村を固めて展開しすぎないように考慮した結果でした。
 生産量についてはオアシスさえ取得できれば良いわけですし、
 私は差込・秒合わせが得意でなかったのでチャンスを増やせるように広めに展開しました。


3.IRCでの会話について
 確かに「戦力差があった」というのは常にあると思いますが、
 戦力が決定要因と主張するためには他の要素で相手と張り合う必要があります。
 「偵察を撃たない・有効的な攻撃を行おうとしない・フェイクを撃たない。」
 これで戦力に差があったと言われてもそもそも比べる土俵に立っていません。
 3期の終盤戦がお互いにほぼ全ての戦力を出し切った結果になったのも、
 匠を巡る戦いで両者が様々な手を打ったからだと思っています。
 そして、Rが相手の匠リレーのミスをついて勝ったわけです。
 Rとしてはごく一部の弾を除いて無駄撃ちはしていませんし、
 相手の攻撃によって潰されたWW砲もごく一部です。
 それでもなお攻撃兵を撃ち切った状態で終了し、
 防衛数では圧倒的に負けていたというのが現実です。
 4期については3期Rとその他よりも戦力差があったとはいえ、
 戦争の帰趨そのものを左右したのは攻撃計画であると思います。
 一部幹部だけに防衛を常時集中させるスタイルは、
 戦争そのものには負けないかもしれませんが勝利は絶対にありえません。

若干の補足

4期終了後に、Travianのスレッドで若干悪口めいたことを書かれていたために、それに応答したもの。

4期jpx個人成績(2010-10-30)

 

4期jpx個人成績

シッターさんのおかげで無事終了
ラストに激戦があるかと思いきや何もなかったというオチ

[戦績]※ランキングにはNatarsを含む
人口:42203(15位)
攻撃:656785(10位)
英雄:レベル104 547397(14位)

主砲:
インペリ 135205
カエザリ 72347
ラム   37571
カタパ  3846

副砲:
インペリ 58484
インペラ 24650
カエザリ 17417
ラム   1197
カタパ  9494

副副砲:
インペリ 16452
インペラ 7825
カエザリ 6235
ラム   1154
カタパ  6283

 

序盤の村の育て方(2010-08-01)

序盤の村の育て方


※以下の内容は初心者の方に向けたものです※

まずは序盤に村を育てるにあたって、
必ず抑えないといけないポイントを確認します。

①初期村のパネルを11以上にしない
 トラビアンは麦の方が資源生産の効率がいいため、(ブーストが50%あるため)
 中農場や大農場を首都にする必要があります。
 兵士を作るつもりがなければ資源村首都でも構いませんが、
 そもそも兵士を作るつもりがないならトラビアンをやらない方がいいので、
 ここでは兵士を作る前提で農場首都を必須条件とします。


②2村目で農場を取得
 ①でも書いたように、農場の確保は必須です。
 しかし、農場とは当然のように数が限られており、
 早く取らなければすぐに中央付近のものは埋まってしまいます。
 そのため、2村目で農場を取得するのが必須です。
 また、無課金でINがあまり高くない方は、
 遠くのオアシス%が高い農場を取っても資源輸送が滞るため、
 序盤の成長がかなり遅くなってしまいます。
 そのような方は可能な初期村の近くの中農を、
 オアシス%が低かったとしても取得することをオススメします。